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武蔵野航海記

武蔵野航海記

サン・ジュスト

ルイ・アントワーヌ・レオン・ド・サンジュスト(1767~1794)はフランス革命の時の政治家で26歳の時に死刑になりました。

彼のことをパソコンで検索してみたら非常に多くの記事があるのに驚きました。

フランス革命では多くの英雄・豪傑が活躍しますが、サンジュストはそれほど有名な存在ではありません。

「ヴェルサイユのバラ」に彼が登場して日本でも一躍人気者になったということのようです。

女性的な美貌の持ち主で革命時代に国会議員として活躍し若くして死刑になったというロマンチックな男ですから当然でしょうね。

農民出身の父親が軍隊で将校になって最下位の爵位であるシュバリエの称号を授与されています。

従って彼の名前には貴族であることを示す ド(de)が付いています。

彼に限らずフランス革命当時の革命家には平民出身ですが努力の末に下級貴族になった者が大勢います。

大学で法律を学んだ後、23歳の時に「オルガン」というエロチックで反体制的な詩を書き牢獄につながれています。

彼に限らず革命家の多くは、革命の前には詩を書いたり怠惰な生活を送ったりしていました。

出口のない時代だったのですね。

サンジュストは、ド・ロベスピエール(1758~1794)が率いるジャコバン派という政治グループに所属していました。

ちなみにロベスピエールも下級貴族の出身です。

このジャコバン派は最も急進的な勢力で、革命の前半に大いに勢力を増し国王を死刑にしたり封建制度を廃止したりしています。

国王を死刑にしたために危険を感じたヨーロッパ中の王国が革命を潰しにフランスに攻め込んできました。

また国内では反革命の反乱が多発して革命勢力は非常な苦境に追い込まれました。

そこでジャコバン派が独裁政治を敷き、反対勢力を何万人も死刑にしてとにかく革命を守ったのです。

しかし1794年には独裁政治への反感からクーデターが起き、ジャコバン派は壊滅しました。

サンジュストは1792年に25歳で国会議員に選出され、1794年に保守派のクーデターに遭って死刑になったのです。

フランス革命は1789年7月14日に、政治犯が収容されていたバスチーユ要塞が襲撃されて始まりました。

今でも7月14日は「革命記念日」ですが、日本では「パリ祭」と呼ばれています。

革命をお祭りと感じた神経を私は理解できませんしフランス革命に対して失礼だとも思うのですが、とにかく日本ではこう呼ばれているのです。

革命三年目の1791年に王政が廃止され、フランスは共和国となって憲法も制定されました。

しかしルイ16世はタンプル塔で監視されながらも家族と生活していました。

もう国王ではなかったので、「ルイ・カペー」と呼ばれたただのオジサンになっていたのです。

千年ぐらい前にパリ伯爵のカペーがフランス王になり代々子孫がフランス王になっていましたが、途中で分家のブルボン公爵に王位が移っています。

だからルイ16世の苗字はカペーなのです。

1792年になってルイ・カペーをどうするかを国会で審議することになりました。

保守派はルイ・カペーを死刑にしたくはありませんでした。

共和国はできたし封建制度も廃止されたので、これ以上革命を進める気持ちはありませんでした。

そして何よりも元国王を死刑にしてヨーロッパ中の王国を相手に戦争することだけは避けたいと思っていました。

そこで保守派は、国王は全ての行為に対して免責されていたから罪を問うことができないと主張しました。

急進派は、今のルイ・カペーは市民なのだから市民として裁判をするべきだと主張していました。

そのときに国会議員になって初めてサンジュストが演説をします。

彼は初めに「ルイ・カペーは普通考えられている二つの意見とは関係にないところの原理において裁判されるべきである」という爆弾発言をしました。

「人は罪なくして王であることは出来ない」。

「主権は人民にしかないのに、これを正統な理由もなく個人的に独占している国王というものは主権の簒奪者であり、存在そのものが悪である」。

「従って彼はフランス国民の仲間ではなく敵であるから、市民として裁判をするのは間違いである」、というわけです。

「主権は一人一人の国民にある」という主権在民の原則と「主権は神によって国王に与えられた」王権神授説という原則は相容れません。

だからサンジュストの主張は正しく、誰もまともな反論が出来なくなってしまいました。

「この男は王としてフランスを統治するか、さもなければ死ななければならないのです」というのがサンジュストの結論でした。

そして国会で表決が行われルイ・カペーの死刑が決まりました。

フランス人はヨーロッパ全体を敵に回すことを承知の上で前国王を死刑にしました。

「いまや我々の背後の道は絶たれた。好むと好まざるとにかかわらず、前進せねばならない。いまこそ『自由に生きるか、しからずんば死か』というべき時だ。」

この言葉は別に誇張されたスローガンではなく、事実を説明した言葉だったのです。

これはフランス人が、人間間の約束事を超越した原理から革命を考えていたことの証拠です。

目の前の戦争を避けるために国王の命を助けるということは、神が国王をフランスの支配者としたという王権神授説を認めたことになります。

そうしたら対立する革命の原則はどんどん後退し最後には革命が潰れてしまいます。

フランス人は革命の原則の方が何百万人というフランス人の命より大切だと考えたのです。

実際、1789年の革命勃発から1815年にナポレオンが敗北しブルボン王家が復活するまでの間のフランス人の戦死者は百万人を越えています。

それ以外にジャコバン派の独裁政治時代に多くの者が死刑になり、また内乱での犠牲者も多かったのです。

当時のフランスの人口は2600万人で現在の日本の五分の一です。

さらにこの革命の原則がフランスに定着するまでに80年以上かかっています。

1789年に革命が起こり、ナポレオンが皇帝になったのが1804年です。

1815年にナポレオンが追い出されブルボン王家が復活します。

1830年には7月革命が起き、ブルボンの分家が王位に着きます。

その王家も1848年の二月革命で追放されまた共和国になります。

ところがナポレオンの甥にあたるナポレオン3世(1808~1873)が1852年に皇帝になってしまいました。

このナポレオン3世が追い出されフランスが最終的に共和国という政治体制に落ち着くのは1870年です。

実に81年かかっています。

日本は廃藩置県(大名を罷免し日本全体を天皇の領地とした政策)が行われたのが明治4年ですから4年間で決着がついています。

西郷隆盛の起こした西南戦争(明治10年に起こった薩摩の武士の反乱)を打ち破り武士の反対勢力を壊滅させたまでと考えても10年です。

日本人は一旦新しい既成事実ができれば、それを正しい自然環境と考えてしまうのです。

まさに明恵上人の「あるべきようは」です。

「あるべきようは」とは、人も動物も月や山といった自然も全て自然の一部だとする思想です。

国家や企業という人間の集団も自然の一部であり、動物や自然物と同列です。

そして人は無欲に自然の中で自分のいるべき位置にいるのが正しいと考えるのです。

この「あるべきようは」は日本人しかもっていない思想ですから、フランス人にはこんなものはありません。

原理原則を納得するまで追及します。

フランス絶対王政を支えた「王権神授説」は言うまでもなくキリスト教を背景にしています。

一方の革命の原理もキリスト教を背景にしています。

サンジュストは死刑になる前に下記のようなものを書いています。

「私は、私を形づくり話をしている塵(肉体)を軽蔑する。人はこの塵を迫害し殺すことも出来るだろう。」

「しかし私が何世紀後かに、天上で得た独立した命を私から奪うことは出来ない。」

「ヨーロッパとフランスに一人の不孝な者もいなくなることを望む。また圧制をしようと思っても出来ないことを支配者が悟ることを望む。」

「我々の作ったルール(革命の原理)が地上に実を結び、徳と愛と幸福が地上に広がることを望む。」

「幸福とはヨーロッパに現れた新しい概念である。」

これは政治的な言葉ではなく、一つの宗教に対する信仰告白です。

サンジュストはカトリックとは異なる新しいキリスト教の一派である「キリスト教革命派」の真面目な信者でした。

フランスは19世紀の80年間宗教戦争をやっていたのです。


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